「本多庸一」の版間の差分
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2022年5月5日 (木) 17:33時点における版
(ほんだよういち)
基本情報
よみがな | ほんだよういち |
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職業 | キリスト教指導者 |
生年 | 1848 |
没年 | 1912 |
出生地 | 陸奥国弘前 |
別名 | 久亨、德藏、庸一郞、小靜 |
経歴
嘉永元年12月13日陸奥国弘前生れ。明治45年3月26日歿。諱久亨、初名德藏、通称庸一郞、のち庸一。号小靜。弘前藩士本多久元の長男。藩校稽古館に学ぶ。明治3年藩命により横浜に遊学、薔薇―塾に入り英学を修めキリスト教に接す。5年受洗、7年帰郷して東奥義塾塾頭となり(のち塾長)、翌年弘前基督公會を設立。15年青森県会議員、21年アメリカ留学、23年東京英和学校校主兼教授(27年青山学院と改称、2代院長就任)及び青山美以教会教師。30年福音同盟会会長、40年日本メソヂスト協会初代監督、44年日本基督教会同盟初代会長となる。
作品
- 講演集 世界のペンテコステの説 ( 明治28年1月8日 メソヂスト出版舎 <SERMON SERIES> ) → 「講演集 世界のペンテコステの説」をさがす
- 男女學生氣質 (附錄學生消夏法) ( 磯邊彌一郞、坪内雄藏(坪内逍遙)、戸川殘花、棚橋絢子、幸田露伴、村上專精、三輪田眞佐子、鈴木券太郞、佐治實然、山脇ふさ子(山脇房子)、石黑忠悳、奧村五百子、遲塚麗水、鳩山春子、中川謙次郞(中川謙二郞)、南岩倉具威、南條文雄、棚橋一郞、磯江潤、小杉天外、留岡幸助、山縣悌三郞、高島平三郞、本田增次郞、前田慧雲、寺田勇吉、井上圓了、ノオスター、島田三郞、松村介石、島田蕃根、後藤宙外、松浦政泰、坂本盛德、加納久宜、古川流泉、田中治六、梅原融、融道玄、加藤咄堂、下田次郞、境野黄洋、中島德藏、根本正、手島精一、平山藤次郞、加藤弘之、小笠原長生、澤柳政太郞、久津見蕨村、合著 新公論社―高島大圓(高嶋米峰)編 明治39年3月29日 鶴聲堂書店 井洌堂 ) → 「男女學生氣質」をさがす
- 本多庸一先生遺稿 ( 靑山學院編 大正7年11月12日 日本基督敎興文協會 ) → 「本多庸一先生遺稿」をさがす
文獻
- 我が先生 ( 岡田哲藏編 大正14年3月14日 阿部義宗刊 ) → 「我が先生」をさがす
- 本多庸一 ( 気賀健生執筆 昭和43年4月1日 靑山學院編刊 ) → 「本多庸一」をさがす