「副島種臣」の版間の差分
→ 日本の古本屋で本をさがす (→作品) |
|||
33行目: | 33行目: | ||
|書名=五十名家語錄 | |書名=五十名家語錄 | ||
|接尾辞= | |接尾辞= | ||
− | |共著者名= | + | |共著者名=勝安芳([[勝海舟]])、[[尾崎忠治]]、[[渡邊國武]]、[[加藤弘之]]、[[田中正造]]、[[小原重哉]]、[[伊東巳代治]]、[[井上哲次郞]]、[[大井憲太郞]]、[[榎本武揚]]、[[末松謙澄]]、[[外山正一]]、阿部井磐根([[安部井磐根]])、[[谷干城]]、[[岸田吟香]]、[[村田保]]、[[犬養毅]]、[[島地默雷]]、[[元田肇]]、[[田中芳男]]、[[近衞篤麿]]、山田喜之助([[山田奠南]])、[[黑田長成]]、重野安繹([[重野成齋]])、[[二條基弘]]、[[田口卯吉]]、[[志賀重昂]]、[[榎本通明]]、[[品川彌二郞]]、[[千家尊福]]、[[水野遵]]、[[福羽美靜]]、[[杉浦重剛]]、[[富田鐵之助]]、[[小山健三]]、[[金井之恭]]、[[三浦安]]、[[江原素六]]、[[長谷川泰]]、巖谷修([[巖谷一六]])、[[長谷塲純孝]]、[[三宅秀]]、[[中野武營]]、[[兒玉淳一郞]]、[[神鞭知常]]、[[安藤則命]]、[[三崎龜之助]]、[[久保田讓]]、[[鈴木無隱]]、[[伊藤博文]]、[[大隈重信]]、合著 [[平田骨仙]]撰 |
|別名= | |別名= | ||
|責任表示= | |責任表示= | ||
59行目: | 59行目: | ||
|出版社=[[佐々木哲太郞]]編刊 | |出版社=[[佐々木哲太郞]]編刊 | ||
|}} | |}} | ||
+ | |||
== 文獻 == | == 文獻 == | ||
2022年6月3日 (金) 21:21時点における最新版
(そへじまたねおみ)
基本情報
よみがな | そえじまたねおみ |
---|---|
職業 | 旧佐賀藩士、政治家 |
生年 | 1828 |
没年 | 1905 |
出生地 | 肥前国 |
別名 | 一々學人、蒼海、一一學人種臣、一ゝ學人種臣、副嶋種臣、副嶌種臣、副種臣、嶌種臣、種臣生、種臣老人、菅原朝臣種臣、菅原種臣、菅原種臣朝臣、菅參、菅種臣 |
経歴
文政11年9月9日肥前国生れ。明治38年1月31日歿。旧姓枝吉、幼名二(次)郞、龍種。号一々學人、蒼海。筆名一一學人種臣、一ゝ學人種臣、副嶋種臣、副嶌種臣、副種臣、嶌種臣、種臣生、種臣老人、菅原朝臣種臣、菅原種臣、菅原種臣朝臣、菅參、菅種臣等。嘉永3年実兄枝吉神陽の楠公義祭同盟に参加。のち藩校教授、慶応3年大隈重信と共に脱藩。翌年新政府の制度事務判事となり、福岡孝弟と政体書を起草。明治2年参議、4年外務卿、6年征韓論を主張して下野、翌年民撰議院設立建白書に連署。12年宮内省御用掛一等待講、17年伯爵。爾後宮中顧問官、枢密顧問官、内相歴任。漢詩人、能書家としても聞こえ持説を有した。
作品
- 近世詩文 第一集 ( 合著 楢崎隆存編 明治10年11月 大阪 鹿田靜七・赤志忠七出版 ) → 「近世詩文 第一集」をさがす
- 五十名家語錄 ( 勝安芳(勝海舟)、尾崎忠治、渡邊國武、加藤弘之、田中正造、小原重哉、伊東巳代治、井上哲次郞、大井憲太郞、榎本武揚、末松謙澄、外山正一、阿部井磐根(安部井磐根)、谷干城、岸田吟香、村田保、犬養毅、島地默雷、元田肇、田中芳男、近衞篤麿、山田喜之助(山田奠南)、黑田長成、重野安繹(重野成齋)、二條基弘、田口卯吉、志賀重昂、榎本通明、品川彌二郞、千家尊福、水野遵、福羽美靜、杉浦重剛、富田鐵之助、小山健三、金井之恭、三浦安、江原素六、長谷川泰、巖谷修(巖谷一六)、長谷塲純孝、三宅秀、中野武營、兒玉淳一郞、神鞭知常、安藤則命、三崎龜之助、久保田讓、鈴木無隱、伊藤博文、大隈重信、合著 平田骨仙撰 明治31年10月13日 平田勝馬刊 鐵華書院 ) → 「五十名家語錄」をさがす
- 精神敎育 ( 佐々木哲太郞校、川崎又次郞輯 増訂第5版 明治34年12月17日 靜思館 ) → 「精神敎育」をさがす
文獻
- 副島種臣伯 ( 丸山幹治著 昭和11年2月20日 大日社 ) → 「副島種臣伯」をさがす