操作

「平沼騏一郞」の版間の差分

→ 日本の古本屋で本をさがす
4行目: 4行目:
  
 
{{人物情報
 
{{人物情報
|よみがな=ひらぬまきいちらう
+
|よみがな=ひらぬまきいちろう
|職業=
+
|職業=政治家、法学博士
|生年=
+
|生年=1867
|没年=
+
|没年=1952
|出生地=
+
|出生地=美作国
 
|本名=
 
|本名=
 
|別名=
 
|別名=
14行目: 14行目:
 
----
 
----
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 +
慶応3年9月28日美作国生れ。昭和27年8月22日歿。明治21年帝国大学法科大学卒。司法省入省、44年司法次官、爾後検事総長、大審院長を経て、大正12年法相、翌年虎ノ門事件で辞任。次いで貴族院議員、枢密顧問官、昭和11年枢密院議長、14年首相歴任。男爵受爵。この間皇室中心主義の結社國本社を主宰、機関誌『國本』を発刊し、<天皇機関説>批判の先鋒となる。修養団理事。戦後千帆容疑で終身禁固刑も、仮出所中死去。法学者[[平沼淑郞]]の弟。
 +
----
 +
== 作品 ==
  
 
----
 
----
== 作品 ==
+
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=義公生誕三百年記念講演集
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=德富猪一郞([[德富蘇峰]])、[[金杉英五郞]]、[[三浦周行]]、[[小山松吉]]、[[栗田勤]]、[[深作安文]]、[[大津淳一郞]]、[[鹽澤昌貞]]、[[菊池謙二郞]]、[[元田肇]]、[[金子堅太郞]]、小久保喜七([[小久保城南]])、[[後藤新平]]、合著
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=昭和6年3月10日
 +
|出版社=茨城 義公生誕三百年記念會
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=祭祀と事業
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=昭和13年4月29日
 +
|出版社=修養團
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=日本精神発揚講演集
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=[[荒木貞夫]]、德富猪一郞([[德富蘇峰]])合著 [[瀨尾芳夫]]編
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=昭和14年3月13日
 +
|出版社=國民精神總動員中央聯盟
 +
|}}
 +
== 文献 ==
  
 
----
 
----
 
{{作品|
 
{{作品|
 
|冠称=
 
|冠称=
|書名=
+
|書名=平沼騏一郞と末次信正
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=[[唐島基智三]]著
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=昭和13年4月24日
 +
|出版社=今日の問題社
 +
|シリーズ名=情報と解説
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=祭祀と事業衍義
 
|接尾辞=
 
|接尾辞=
 
|共著者名=
 
|共著者名=
 
|別名=
 
|別名=
 
|責任表示=
 
|責任表示=
|刊行年=
+
|刊行年=昭和14年6月1日
|出版社=
+
|出版社=興文社
 +
|シリーズ名=東洋文化叢書
 
|}}
 
|}}
 
{{作品|
 
{{作品|
 
|冠称=
 
|冠称=
|書名=義公生誕三百年記念講演集
+
|書名=平沼騏一郎先生逸話集
 
|接尾辞=
 
|接尾辞=
|共著者名=德富猪一郞([[德富蘇峰]])、[[金杉英五郞]]、[[三浦周行]]、[[小山松吉]]、[[栗田勤]]、[[深作安文]]、[[大津淳一郞]]、[[鹽澤昌貞]]、[[菊池謙二郞]]、[[元田肇]]、[[金子堅太郞]]、小久保喜七([[小久保城南]])、[[後藤新平]]、合著
+
|共著者名=
 
|別名=
 
|別名=
 
|責任表示=
 
|責任表示=
|刊行年=昭和6年3月10日
+
|刊行年=昭和33年8月22日
|出版社=茨城 義公生誕三百年記念會
+
|出版社=岡山 平沼騏一郎先生逸話集刊行会
 
|}}
 
|}}
  
45行目: 90行目:
  
 
[[Category:人名辞典|ひらぬまきいちらう]]
 
[[Category:人名辞典|ひらぬまきいちらう]]
[[Category:未着手|ひらぬまきいちらう]]
+
[[Category:完了|ひらぬまきいちらう]]

2024年6月25日 (火) 22:49時点における版

(ひらぬまきいちらう)


基本情報

よみがな ひらぬまきいちろう
職業 政治家、法学博士
生年 1867
没年 1952
出生地 美作国



経歴

慶応3年9月28日美作国生れ。昭和27年8月22日歿。明治21年帝国大学法科大学卒。司法省入省、44年司法次官、爾後検事総長、大審院長を経て、大正12年法相、翌年虎ノ門事件で辞任。次いで貴族院議員、枢密顧問官、昭和11年枢密院議長、14年首相歴任。男爵受爵。この間皇室中心主義の結社國本社を主宰、機関誌『國本』を発刊し、<天皇機関説>批判の先鋒となる。修養団理事。戦後千帆容疑で終身禁固刑も、仮出所中死去。法学者平沼淑郞の弟。


作品





文献





PDF

14053.pdf

PDFファイルを別ウィンドウで開く


参考ページ