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天保10年7月7日越後国蒲原郡白根生まれ。大正6年9月10日歿。諱世恆、字德夫、幼名七五三藏、通称恆太郞、恆、号豐城。安政6年江戸で[[鹽谷宕陰]]の学僕となる。慶応3年帰郷、翌年水原学校教官。明治8年上京して太政官修史局に入り、「大日本編年史」の編纂に従事。21年帝国大学文科大学教授、39年学士院会員、43年史学会会長。
 
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2023年7月11日 (火) 23:38時点における版

(ほしのひさし)


基本情報

よみがな ほしのひさし
職業 国史学者、文学博士
生年 1839
没年 1917
出生地 越後国蒲原郡白根
別名 世恆、德夫、七五三藏、恆太郞、恆、豐城



経歴

天保10年7月7日越後国蒲原郡白根生まれ。大正6年9月10日歿。諱世恆、字德夫、幼名七五三藏、通称恆太郞、恆、号豐城。安政6年江戸で鹽谷宕陰の学僕となる。慶応3年帰郷、翌年水原学校教官。明治8年上京して太政官修史局に入り、「大日本編年史」の編纂に従事。21年帝国大学文科大学教授、39年学士院会員、43年史学会会長。


作品









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