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天保9年3月21日江戸和泉橋通生れ。明治40年11月10日歿。諱三兼、字叔井、通称昇六。万葊、卍菴とも署す。[[市河米庵]]六十歳の折に生まれた長男。祖父は寛齋。分家して本郷森川町に住す。十二歳で旧式砲術を学び、更に[[江戸坦庵]]、[[高島秋帆]]に就いて新式を修め、先手鉄砲方となる。安政3年[[海保醉茗]]に篆刻を学び、6年書道教授を始む。維新後大蔵民部両省に出仕、明治3年以降大蔵省の命により新紙幣の文字を書き、同省の属官二十余年に及んだ。同3年先考十三回忌追善の宴を江東中村樓に開き、参集者二千名を数えたという。また当日の模様を記した冊子『金洞餘音』を作った。40年の五十周忌には『米菴先生詩集』五冊を版にし旧知に配布。長男書家[[市河三陽]]、次男英語学者[[市河三喜]]、三男林学博士[[市河三祿]]、一女も華道池坊宗匠と皆名を成した。少時書の門弟であった[[岡麓]]に<ひとたびは米庵堂を見たかりしをさなき心今ものこれり>の歌がある。
 
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2022年9月19日 (月) 10:18時点における最新版

(いちかはまんなん)


基本情報

よみがな いちかわまんなん
職業 書家、篆刻家
生年 1838
没年 1907
出生地 江戸和泉橋通
別名 三兼、叔井、昇六、万葊、卍菴



経歴

天保9年3月21日江戸和泉橋通生れ。明治40年11月10日歿。諱三兼、字叔井、通称昇六。万葊、卍菴とも署す。市河米庵六十歳の折に生まれた長男。祖父は寛齋。分家して本郷森川町に住す。十二歳で旧式砲術を学び、更に江戸坦庵高島秋帆に就いて新式を修め、先手鉄砲方となる。安政3年海保醉茗に篆刻を学び、6年書道教授を始む。維新後大蔵民部両省に出仕、明治3年以降大蔵省の命により新紙幣の文字を書き、同省の属官二十余年に及んだ。同3年先考十三回忌追善の宴を江東中村樓に開き、参集者二千名を数えたという。また当日の模様を記した冊子『金洞餘音』を作った。40年の五十周忌には『米菴先生詩集』五冊を版にし旧知に配布。長男書家市河三陽、次男英語学者市河三喜、三男林学博士市河三祿、一女も華道池坊宗匠と皆名を成した。少時書の門弟であった岡麓に<ひとたびは米庵堂を見たかりしをさなき心今ものこれり>の歌がある。


作品




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