「朝河貫一」の版間の差分
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明治6年12月20日福島県安達郡二本松生れ、昭和23年8月11日歿。筆名形影生。明治28年東京専門学校を首席で卒業後アメリカに渡り、32年ダートマス大学を卒業、次いでエール大学に入り大学院課程を修了。35年『a study in the Reform of 645 A.D.』(明治36年刊)で学位を取得。37年『The Russo-Japanese Conflict. Its Causes and Issues』(1904. London. Archibold Constable & Co.,Ltd.)を著して、日露戦争における日本の正当性を説いた。39年エール大学図書館、アメリカ議会図書館の依頼で日本関係図書収集のため帰朝。翌年アメリカに戻りエール大学講師(日本文化史担当)となり、兼て同図書館の東アジアコレクション部長を務めた。 | 明治6年12月20日福島県安達郡二本松生れ、昭和23年8月11日歿。筆名形影生。明治28年東京専門学校を首席で卒業後アメリカに渡り、32年ダートマス大学を卒業、次いでエール大学に入り大学院課程を修了。35年『a study in the Reform of 645 A.D.』(明治36年刊)で学位を取得。37年『The Russo-Japanese Conflict. Its Causes and Issues』(1904. London. Archibold Constable & Co.,Ltd.)を著して、日露戦争における日本の正当性を説いた。39年エール大学図書館、アメリカ議会図書館の依頼で日本関係図書収集のため帰朝。翌年アメリカに戻りエール大学講師(日本文化史担当)となり、兼て同図書館の東アジアコレクション部長を務めた。 | ||
− | + | 41年日本外交批判の一書を著して日本に送り、原稿を読んだ[[坪内逍遙]]の命名で『日本の禍機』(明治42年6月18日實業之日本社)と題して出版。大正6年日本中世史研究のため東京帝国大学史料編纂所に留学。昭和4年主著『The Documents of Iriki』(入来文書)を完成出版、封建制の実証的研究として西欧学界からも高い評価を | |
受けた。12年エール大学歴史学教授。 | 受けた。12年エール大学歴史学教授。 | ||
伝記に、阿部善雄著『最後の「日本人」-朝川貫一の生涯』(昭和58年9月26日岩波書店)があり、その主要書翰を附載。 | 伝記に、阿部善雄著『最後の「日本人」-朝川貫一の生涯』(昭和58年9月26日岩波書店)があり、その主要書翰を附載。 |
2020年12月17日 (木) 21:43時点における版
(あさかはくわんいち)
基本情報
よみがな | あさかわかんいち |
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職業 | 歴史学者 |
生年 | 1873 |
没年 | 1948 |
出生地 | 福島県安達郡 |
経歴
明治6年12月20日福島県安達郡二本松生れ、昭和23年8月11日歿。筆名形影生。明治28年東京専門学校を首席で卒業後アメリカに渡り、32年ダートマス大学を卒業、次いでエール大学に入り大学院課程を修了。35年『a study in the Reform of 645 A.D.』(明治36年刊)で学位を取得。37年『The Russo-Japanese Conflict. Its Causes and Issues』(1904. London. Archibold Constable & Co.,Ltd.)を著して、日露戦争における日本の正当性を説いた。39年エール大学図書館、アメリカ議会図書館の依頼で日本関係図書収集のため帰朝。翌年アメリカに戻りエール大学講師(日本文化史担当)となり、兼て同図書館の東アジアコレクション部長を務めた。 41年日本外交批判の一書を著して日本に送り、原稿を読んだ坪内逍遙の命名で『日本の禍機』(明治42年6月18日實業之日本社)と題して出版。大正6年日本中世史研究のため東京帝国大学史料編纂所に留学。昭和4年主著『The Documents of Iriki』(入来文書)を完成出版、封建制の実証的研究として西欧学界からも高い評価を 受けた。12年エール大学歴史学教授。 伝記に、阿部善雄著『最後の「日本人」-朝川貫一の生涯』(昭和58年9月26日岩波書店)があり、その主要書翰を附載。
作品