「相川春喜」の版間の差分
→ 日本の古本屋で本をさがす (→作品) |
|||
39行目: | 39行目: | ||
|出版社=三笠書房 | |出版社=三笠書房 | ||
|シリーズ名=唯物論叢書 | |シリーズ名=唯物論叢書 | ||
+ | |}} | ||
+ | {{作品| | ||
+ | |冠称= | ||
+ | |書名=戰爭と科學 | ||
+ | |接尾辞= | ||
+ | |共著者名=[[宮本武之輔]]、[[浦本政三郞]]、[[宮城音五郞]]、[[石原純]]、[[佐藤弘]]、[[高山英華]]、[[諸井貫一]]、[[榧木寬之]]、[[嶺一三]]、[[田中芳雄]]、[[厚木勝基]]、[[常岡俊三]]、[[有賀輝]]、[[永井彰一郞]]、[[櫻井高景]]、[[内田祥三]]、[[田宮猛雄]]、[[平山嵩]]、[[萩原兼文]]、[[眞邊春藏]]、[[相三衞]]、[[濱田稔]]、[[眞鍋嘉一郞]]、[[嵯峨根達吉]]、[[玉蟲文一]]、[[桑木彧雄]]、[[竹内松次郞]]、[[龜山直人]]、[[丘英通]]、[[彌永昌吉]]、[[緒方規雄]]、[[林髞]]、[[有山兼孝]]、[[渡邊慧]]、[[渡瀨正麿]]、[[吉川晴十]]、[[山口吉郞]]、[[石田四郞]]、[[片岡正治]]、[[近藤政市]]、[[山崎毅六]]、[[近藤康男]]、[[三浦伊八郞]]、[[高野六郞]]、[[佐立健雄]]、[[細谷省吾]]、[[高木憲次]]、[[堤直溫]]、[[宮本忍]]、[[内村祐之]]、[[呉健]]、[[柿内三郞]]、[[喜多源逸]]、[[二神哲五郞]]、[[山口昇]]、合著 [[帝國大學新聞社]]編 | ||
+ | |別名= | ||
+ | |責任表示= | ||
+ | |刊行年=昭和16年8月25日 | ||
+ | |出版社=帝國大學新聞社 | ||
|}} | |}} | ||
{{作品| | {{作品| | ||
60行目: | 70行目: | ||
|出版社=相川春喜小傳刊行会 | |出版社=相川春喜小傳刊行会 | ||
|}} | |}} | ||
+ | |||
== PDF == | == PDF == | ||
[[file:15217.pdf|center|1000px]] | [[file:15217.pdf|center|1000px]] |
2021年9月12日 (日) 00:32時点における版
(あひかははるき)
基本情報
よみがな | あいかわはるき |
---|---|
職業 | 技術史家 |
生年 | 1909 |
没年 | 1953 |
出生地 | 新潟県高田市南土橋 |
本名 | 矢浪久雄 |
経歴
明治42年8月15日新潟県高田市南土橋生れ。昭和28年4月29日歿。昭和4年第四高等学校文科卒業試験後に雑誌「廣場」事件で退学処分となる。上京して早稲田第一高等学院に入学も、プロレタリア文化運動に参加して検挙せられ、学院からも除名。7年唯物論研究会に加わり研究組織部副部長となった。また岡邦雄等と技術概念を廻って論争。翌年岩波書店の「日本資本主義發達史講座」に「農村經濟と農業恐慌」を執筆。更に雑誌「歴史科學」、「唯物論研究」等に論文発表。11年コム・アカデミー事件で検挙せられ翌年釈放、爾後3年間執筆禁止中岩波書店校正部に嘱託として勤務。次いで同盟通信社嘱託、明治大学講師を経て、19年応召。戦後シベリアに4年間抑留、この間日本人捕虜民主化運動の機関誌「日本しんぶん」の論説を担当した。帰国後日本共産党本部で活動中急逝。
作品
- 歴史科學の方法論 ( 昭和10年7月15日 白揚社 ) → 「歴史科學の方法論」をさがす
- 技術論 ( 昭和11年8月18日 三笠書房 <唯物論叢書> ) → 「技術論」をさがす
- 戰爭と科學 ( 宮本武之輔、浦本政三郞、宮城音五郞、石原純、佐藤弘、高山英華、諸井貫一、榧木寬之、嶺一三、田中芳雄、厚木勝基、常岡俊三、有賀輝、永井彰一郞、櫻井高景、内田祥三、田宮猛雄、平山嵩、萩原兼文、眞邊春藏、相三衞、濱田稔、眞鍋嘉一郞、嵯峨根達吉、玉蟲文一、桑木彧雄、竹内松次郞、龜山直人、丘英通、彌永昌吉、緒方規雄、林髞、有山兼孝、渡邊慧、渡瀨正麿、吉川晴十、山口吉郞、石田四郞、片岡正治、近藤政市、山崎毅六、近藤康男、三浦伊八郞、高野六郞、佐立健雄、細谷省吾、高木憲次、堤直溫、宮本忍、内村祐之、呉健、柿内三郞、喜多源逸、二神哲五郞、山口昇、合著 帝國大學新聞社編 昭和16年8月25日 帝國大學新聞社 ) → 「戰爭と科學」をさがす
- 文化映畫論 ( 昭和19年9月15日 霞ケ關書房 ) → 「文化映畫論」をさがす
- 相川春喜小傳 ( 昭和30年4月29日 相川春喜小傳刊行会 ) → 「相川春喜小傳」をさがす