「木村駒子」の版間の差分
→ 日本の古本屋で本をさがす5行目: | 5行目: | ||
{{人物情報 | {{人物情報 | ||
|よみがな=きむらこまこ | |よみがな=きむらこまこ | ||
− | |職業= | + | |職業=舞踊家 |
− | |生年= | + | |生年=1887 |
− | |没年= | + | |没年=1980 |
− | |出生地= | + | |出生地=熊本県 |
− | |本名= | + | |本名=木村駒 |
− | |別名= | + | |別名=こま子、黑瀨こま子 |
|}} | |}} | ||
---- | ---- | ||
== 経歴 == | == 経歴 == | ||
− | + | 明治20年7月29日熊本県生れ。昭和55年7月10日歿。[[黑瀨與作]]の長女。のち[[木村萬作]]の養女となり、養父の甥[[木村義雄]]と同棲。明治38年熊本女学校卒業後福岡英和女学校に入り、更に青山女学院英文専門科へ転ずるも中退、その後新聞「熊本評論」に「革命劇を創唱す」(明治40年11月5日第10号)等を執筆。44年帝国劇場附属技芸學校に入るも翌年退き、浅草女優となって活躍、大正2年[[西川文子]]、[[宮崎光子]]等と新眞婦人會を結成。機関誌「新眞婦人」を創刊した。6年夫と息子(のちの翻訳家[[木村生死]])と共にアメリカに渡り、カーネギー・ホールにも出演するなど舞踊家として活躍。この間世界周遊途上の[[德冨蘆花]]夫妻と親交、14年帰国、昭和5年京都藝術大学を開設して社交ダンス、日本舞踊を教授。戦時中渡滿して神教で、戦後は東京で舞踊教授。 | |
---- | ---- | ||
== 作品 == | == 作品 == | ||
21行目: | 21行目: | ||
{{作品| | {{作品| | ||
|冠称= | |冠称= | ||
− | |書名= | + | |書名=新らしき女の行くべき道 |
+ | |接尾辞= | ||
+ | |共著者名=[[西川文子]]、[[宮崎光子]]合著 | ||
+ | |別名= | ||
+ | |責任表示= | ||
+ | |刊行年=大正2年4月25日 | ||
+ | |出版社=洛陽堂 | ||
+ | |}} | ||
+ | {{作品| | ||
+ | |冠称= | ||
+ | |書名=舞踊藝術敎程 | ||
|接尾辞= | |接尾辞= | ||
|共著者名= | |共著者名= | ||
|別名= | |別名= | ||
|責任表示= | |責任表示= | ||
− | |刊行年= | + | |刊行年=昭和12年2月20日 |
− | |出版社= | + | |出版社=建設社 |
|}} | |}} | ||
+ | == 文獻 == | ||
+ | |||
+ | ---- | ||
+ | {{作品| | ||
+ | |冠称= | ||
+ | |書名=「熊本評論」の女 | ||
+ | |接尾辞= | ||
+ | |共著者名=[[石原道子]]著 | ||
+ | |別名= | ||
+ | |責任表示= | ||
+ | |刊行年=平成元年7月15日 | ||
+ | |出版社=家族史研究会 | ||
+ | |シリーズ名=女性史叢書 | ||
+ | |}} | ||
+ | |||
== PDF == | == PDF == | ||
[[file:17906.pdf|center|1000px]] | [[file:17906.pdf|center|1000px]] | ||
34行目: | 59行目: | ||
[[Category:人名辞典|きむらこまこ]] | [[Category:人名辞典|きむらこまこ]] | ||
− | [[Category: | + | [[Category:完了|きむらこまこ]] |
2021年5月6日 (木) 23:49時点における最新版
(きむらこまこ)
基本情報
よみがな | きむらこまこ |
---|---|
職業 | 舞踊家 |
生年 | 1887 |
没年 | 1980 |
出生地 | 熊本県 |
本名 | 木村駒 |
別名 | こま子、黑瀨こま子 |
経歴
明治20年7月29日熊本県生れ。昭和55年7月10日歿。黑瀨與作の長女。のち木村萬作の養女となり、養父の甥木村義雄と同棲。明治38年熊本女学校卒業後福岡英和女学校に入り、更に青山女学院英文専門科へ転ずるも中退、その後新聞「熊本評論」に「革命劇を創唱す」(明治40年11月5日第10号)等を執筆。44年帝国劇場附属技芸學校に入るも翌年退き、浅草女優となって活躍、大正2年西川文子、宮崎光子等と新眞婦人會を結成。機関誌「新眞婦人」を創刊した。6年夫と息子(のちの翻訳家木村生死)と共にアメリカに渡り、カーネギー・ホールにも出演するなど舞踊家として活躍。この間世界周遊途上の德冨蘆花夫妻と親交、14年帰国、昭和5年京都藝術大学を開設して社交ダンス、日本舞踊を教授。戦時中渡滿して神教で、戦後は東京で舞踊教授。
作品
- 新らしき女の行くべき道 ( 西川文子、宮崎光子合著 大正2年4月25日 洛陽堂 ) → 「新らしき女の行くべき道」をさがす
- 舞踊藝術敎程 ( 昭和12年2月20日 建設社 ) → 「舞踊藝術敎程」をさがす
文獻
- 「熊本評論」の女 ( 石原道子著 平成元年7月15日 家族史研究会 <女性史叢書> ) → 「「熊本評論」の女」をさがす