操作

「巖谷一六」の版間の差分

→ 日本の古本屋で本をさがす
(1版 をインポートしました)
4行目: 4行目:
  
 
{{人物情報
 
{{人物情報
|よみがな=いはやいちろく
+
|よみがな=いわやいちろく
|職業=
+
|職業=書家、漢詩人
|生年=
+
|生年=1834
|没年=
+
|没年=1905
|出生地=
+
|出生地=近江国
 
|本名=
 
|本名=
|別名=
+
|別名=修、誠卿、辨治、立的。一六居士、一六老人、不知老人、古梅、古梅園、古梅居士、古楳、呑澤山人、噏霞樓主人、嵓谷迂堂、蹋霞仙史、迂堂、逸鹿、逸鹿老漁、金粟、金粟道人
 
|}}
 
|}}
 
----
 
----
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 +
 天保5年2月8日近江国生れ。明治38年7月12日歿。諱修、字誠卿、幼名辨治、立的。別号一六居士、一六老人、不知老人、古梅、古梅園、古梅居士、古楳、呑澤山人、噏霞樓主人、嵓谷迂堂、蹋霞仙史、迂堂、逸鹿、逸鹿老漁、金粟、金粟道人等。
 +
 +
 水口藩侍医[[巖谷玄通]]の子。京で医術を修める傍ら[[中江雪城]]に書を学ぶ。帰藩後[[藤本鐵石]]、[[松本金堂]]等と交わり国事に奔走。慶応4年徴士議政官史官となり、当時の詔勅、制令等の多くに筆を執る。のち太政官大書記官、修史館監事、内閣書記官、元老院議官、錦鶏間祇候、貴族院議員等歴任。書は初め巻菱湖流を能くしたが、明治13年来朝の楊守敬に師事して一変、自家一流を成すに至った。また漢詩文にも長じた。[[巖谷小波]]の父。
  
 
----
 
----
21行目: 24行目:
 
{{作品|
 
{{作品|
 
|冠称=
 
|冠称=
|書名=
+
|書名=行書千字文
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治14年9月11日
 +
|出版社=山中孝之助刊
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=三體千字文
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治18年7月
 +
|出版社=文盛堂
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=新選往復用文
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治19年4月1日
 +
|出版社=文玉圃・文選樓
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=眞行草千字文
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治24年8月1日
 +
|出版社=山中孝之助・杉本七百丸刊
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=行書東湖正氣歌
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治25年3月22日
 +
|出版社=井洌堂・山中孝之助刊
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=四體湊川帖
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治26年9月20日
 +
|出版社=大阪 田中宋榮堂
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=聖諭帖
 
|接尾辞=
 
|接尾辞=
 
|共著者名=
 
|共著者名=
 
|別名=
 
|別名=
 
|責任表示=
 
|責任表示=
|刊行年=
+
|刊行年=明治43年10月
|出版社=
+
|出版社=精華堂法帖店
 
|}}
 
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=一六遺稿
 +
|接尾辞=全二冊
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治45年5月緒言
 +
|出版社=男春生編 無刊記
 +
|}}
 +
 +
 
== PDF ==
 
== PDF ==
 
[[file:13753.pdf|center|1000px]]
 
[[file:13753.pdf|center|1000px]]
34行目: 109行目:
  
 
[[Category:人名辞典|いはやいちろく]]
 
[[Category:人名辞典|いはやいちろく]]
[[Category:未着手|いはやいちろく]]
+
[[Category:完了|いはやいちろく]]
 +
[[Category:書家|いはやいちろく]]
 +
[[Category:漢詩人|いはやいちろく]]

2024年3月11日 (月) 02:04時点における版

(いはやいちろく)


基本情報

よみがな いわやいちろく
職業 書家、漢詩人
生年 1834
没年 1905
出生地 近江国
別名 修、誠卿、辨治、立的。一六居士、一六老人、不知老人、古梅、古梅園、古梅居士、古楳、呑澤山人、噏霞樓主人、嵓谷迂堂、蹋霞仙史、迂堂、逸鹿、逸鹿老漁、金粟、金粟道人



経歴

 天保5年2月8日近江国生れ。明治38年7月12日歿。諱修、字誠卿、幼名辨治、立的。別号一六居士、一六老人、不知老人、古梅、古梅園、古梅居士、古楳、呑澤山人、噏霞樓主人、嵓谷迂堂、蹋霞仙史、迂堂、逸鹿、逸鹿老漁、金粟、金粟道人等。

 水口藩侍医巖谷玄通の子。京で医術を修める傍ら中江雪城に書を学ぶ。帰藩後藤本鐵石松本金堂等と交わり国事に奔走。慶応4年徴士議政官史官となり、当時の詔勅、制令等の多くに筆を執る。のち太政官大書記官、修史館監事、内閣書記官、元老院議官、錦鶏間祇候、貴族院議員等歴任。書は初め巻菱湖流を能くしたが、明治13年来朝の楊守敬に師事して一変、自家一流を成すに至った。また漢詩文にも長じた。巖谷小波の父。


作品











PDF

13753.pdf

PDFファイルを別ウィンドウで開く


参考ページ