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明治10年1月18日兵庫県浜坂生れ。昭和20年10月2日歿。旧姓株本、僧名元淨。号峨翁、雨笊、靑我。明治12年天隣寺[[關祖舜]]の養子となり、15年得度。のち[[樂々北隱]]、[[橋本峨山]]等に学ぶ。44年徳光院住職、大正5年宗務顧問に任じ塔頭慈濟院に住職。翌年東亜同文書院客生として支那行脚、9年インド仏跡巡拝。11年大教師管長、天龍寺住職に就く。昭和14年仏教同願会顧問となり北京での発会式に臨場。19年臨済各派合同第三代管長就任。詩書画ともに秀れた。また、明治10年長兄廣太郞は足尾銅山鉱山長として横浜からイギリスの汽船ノルマントン号に乗船して帰郷の途次、紀州冲で沈没遭難犠牲者23名中の一人。
 
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(せきせいせつ)


基本情報

よみがな せきせいせつ
職業 僧侶
生年 1877
没年 1945
出生地 兵庫県浜坂
別名 元淨。峨翁、雨笊、靑我



経歴

明治10年1月18日兵庫県浜坂生れ。昭和20年10月2日歿。旧姓株本、僧名元淨。号峨翁、雨笊、靑我。明治12年天隣寺關祖舜の養子となり、15年得度。のち樂々北隱橋本峨山等に学ぶ。44年徳光院住職、大正5年宗務顧問に任じ塔頭慈濟院に住職。翌年東亜同文書院客生として支那行脚、9年インド仏跡巡拝。11年大教師管長、天龍寺住職に就く。昭和14年仏教同願会顧問となり北京での発会式に臨場。19年臨済各派合同第三代管長就任。詩書画ともに秀れた。また、明治10年長兄廣太郞は足尾銅山鉱山長として横浜からイギリスの汽船ノルマントン号に乗船して帰郷の途次、紀州冲で沈没遭難犠牲者23名中の一人。


作品





文獻




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