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安政3年11月5日土佐国生れ。大正5年9月9日歿。初名德馬、号日新。藩の貢進生として上京、東京大学文学部を卒へ、明治19年イギリスに留学。当時「論理指鍼」「論理學」等を著わし、<千頭の論理学>と称せられた程の構成者であった。帰朝後、造士館教授、高知中学校校長、第二高等学校教授等を務め、また東京文學院でも経済学や英語を教えた。殊に英語に長じ、「ジャパンメール」紙に執筆した英文記事は、外国人間に評価が高く、日常の手紙や日記なども英文で認め、寧ろ邦文より巧みであったという。その後内務省書記官となり、栃木、宮城、新潟、鹿児島諸県の知事を歴任。また[[加藤高明]]の後を承けて東京日日新聞社社長に就任、40年には貴族院議員、更に錦鶏間祇候に任ぜられた。晩年東京麹町に閑居し、著述に従事。「瑣克拉的」「東西偉人言行録」「内外逸事譚」「奈翁と其元帥」等の著書がある。
 
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2021年3月14日 (日) 20:55時点における最新版

(ちかみきよみ)


基本情報

よみがな ちかみきよみ
職業 論理学者、官僚
生年 1856
没年 1916
出生地 土佐国
別名 德馬、日新



経歴

安政3年11月5日土佐国生れ。大正5年9月9日歿。初名德馬、号日新。藩の貢進生として上京、東京大学文学部を卒へ、明治19年イギリスに留学。当時「論理指鍼」「論理學」等を著わし、<千頭の論理学>と称せられた程の構成者であった。帰朝後、造士館教授、高知中学校校長、第二高等学校教授等を務め、また東京文學院でも経済学や英語を教えた。殊に英語に長じ、「ジャパンメール」紙に執筆した英文記事は、外国人間に評価が高く、日常の手紙や日記なども英文で認め、寧ろ邦文より巧みであったという。その後内務省書記官となり、栃木、宮城、新潟、鹿児島諸県の知事を歴任。また加藤高明の後を承けて東京日日新聞社社長に就任、40年には貴族院議員、更に錦鶏間祇候に任ぜられた。晩年東京麹町に閑居し、著述に従事。「瑣克拉的」「東西偉人言行録」「内外逸事譚」「奈翁と其元帥」等の著書がある。


作品









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