操作

「伊澤修二」の版間の差分

→ 日本の古本屋で本をさがす
(1版 をインポートしました)
4行目: 4行目:
  
 
{{人物情報
 
{{人物情報
|よみがな=いざはしうじ
+
|よみがな=いざわしゅうじ
|職業=
+
|職業=教育家
|生年=
+
|生年=1851
|没年=
+
|没年=1917
|出生地=
+
|出生地=信濃国伊那郡高遠
 
|本名=
 
|本名=
|別名=
+
|別名=好歌翁、樂石居士
 
|}}
 
|}}
 
----
 
----
 
== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
 +
嘉永4年6月29日信濃国伊那郡高遠生れ。大正6年5月3日歿。少時藩校道徳館に入り国漢学を修めた。明治3年貢進生となり、5年大学南校卒業。7年愛知県師範学校校長、翌年アメリカ留学、帰朝後の11年東京師範学校校長兼体操伝習所主幹。翌年文部省に音楽取調掛が創設せられ、その長として伝習生の教育、教科書「小学唱歌集」の編纂等、音楽教育の基本方針を示した。また文部省書記官から編纂局長として最初の国定教科書作成に従事。21年音楽取調掛を改組した東京音楽学校校長、兼て東京盲亞学校校長となるも翌年非職。28年台湾総督府民生局学務局長として新領土の教育に就き画策。32年東京師範学校校長。この間23年に国家教育社を創設(のち大日本教育会と併合し帝國教育会と改称)。後年は樂石社を興して専ら吃音矯正事業に当り、雑誌「樂石叢誌」を創刊。唱歌「紀元節」等を作曲した。
  
 
----
 
----
21行目: 22行目:
 
{{作品|
 
{{作品|
 
|冠称=
 
|冠称=
|書名=
+
|書名=學校管理法
 +
|接尾辞=正・続
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治15年
 +
|出版社=丸善
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=敎育學
 
|接尾辞=
 
|接尾辞=
 
|共著者名=
 
|共著者名=
 
|別名=
 
|別名=
 
|責任表示=
 
|責任表示=
|刊行年=
+
|刊行年=明治16年2月
|出版社=
+
|出版社=丸善商社
 
|}}
 
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=敎育應用生理的心理説略
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治34年8月12日
 +
|出版社=金港堂書籍株式會社
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=東北發音矯正法
 +
|接尾辞=内題「視話應用發音矯正法」
 +
|共著者名=
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=明治42年4月12日
 +
|出版社=樂石社 大日本圖書株式會社
 +
|}}
 +
== 文獻 ==
 +
 +
----
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=樂石伊澤修二先生
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=[[故伊澤修二先生記念事業會編纂委員]]編
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=大正8年
 +
|出版社=故伊澤修二先生記念事業會
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=人物叢書
 +
|書名=伊沢修二
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=[[上沼八郞]]著
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=新装版 1988年7月1日
 +
|出版社=吉川弘文館
 +
|}}
 +
{{作品|
 +
|冠称=
 +
|書名=国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代
 +
|接尾辞=
 +
|共著者名=[[奥中康人]]著
 +
|別名=
 +
|責任表示=
 +
|刊行年=2008年3月25日
 +
|出版社=春秋社
 +
|}}
 +
 +
 
== PDF ==
 
== PDF ==
 
[[file:19063.pdf|center|1000px]]
 
[[file:19063.pdf|center|1000px]]
34行目: 100行目:
  
 
[[Category:人名辞典|いざはしうじ]]
 
[[Category:人名辞典|いざはしうじ]]
[[Category:未着手|いざはしうじ]]
+
[[Category:完了|いざはしうじ]]

2021年3月26日 (金) 20:59時点における版

(いざはしうじ)


基本情報

よみがな いざわしゅうじ
職業 教育家
生年 1851
没年 1917
出生地 信濃国伊那郡高遠
別名 好歌翁、樂石居士



経歴

嘉永4年6月29日信濃国伊那郡高遠生れ。大正6年5月3日歿。少時藩校道徳館に入り国漢学を修めた。明治3年貢進生となり、5年大学南校卒業。7年愛知県師範学校校長、翌年アメリカ留学、帰朝後の11年東京師範学校校長兼体操伝習所主幹。翌年文部省に音楽取調掛が創設せられ、その長として伝習生の教育、教科書「小学唱歌集」の編纂等、音楽教育の基本方針を示した。また文部省書記官から編纂局長として最初の国定教科書作成に従事。21年音楽取調掛を改組した東京音楽学校校長、兼て東京盲亞学校校長となるも翌年非職。28年台湾総督府民生局学務局長として新領土の教育に就き画策。32年東京師範学校校長。この間23年に国家教育社を創設(のち大日本教育会と併合し帝國教育会と改称)。後年は樂石社を興して専ら吃音矯正事業に当り、雑誌「樂石叢誌」を創刊。唱歌「紀元節」等を作曲した。


作品






文獻






PDF

19063.pdf

PDFファイルを別ウィンドウで開く


参考ページ