「川島浪速」の版間の差分
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− | 慶應元年12月7日信濃国松本生まれ。昭和24年6月14日歿。号風外、風外居士。明治8年挙家上京、外国語学校に入り支那語を学ぶも中退。[[副島種臣]]、[[榎本武揚]]等の組織した興亞會に入会し、日清戦争では陸軍通訳官として台湾に従軍、勲功を揚げた。のち乃木台湾総督の下で阿片令施行官となり、北清事変では福島少将直属通訳官に抜擢せられた。34年北京警務学堂を創設して総監督に就任、当時ハルビンに居た[[二葉亭四迷]]も教員を務め、学堂の事務長として半年間在職している。辛亥革命の折は淸皇族を擁立する宗社党を支持して清朝擁護運動を興し、また満蒙独立運動を画策、のちの満州建国の下準備に当たる、この間満州皇族肅親王{{ruby|善耆|ぜんき}}と親交、その第十四女([[川島芳子]] | + | 慶應元年12月7日信濃国松本生まれ。昭和24年6月14日歿。号風外、風外居士。明治8年挙家上京、外国語学校に入り支那語を学ぶも中退。[[副島種臣]]、[[榎本武揚]]等の組織した興亞會に入会し、日清戦争では陸軍通訳官として台湾に従軍、勲功を揚げた。のち乃木台湾総督の下で阿片令施行官となり、北清事変では福島少将直属通訳官に抜擢せられた。34年北京警務学堂を創設して総監督に就任、当時ハルビンに居た[[二葉亭四迷]]も教員を務め、学堂の事務長として半年間在職している。辛亥革命の折は淸皇族を擁立する宗社党を支持して清朝擁護運動を興し、また満蒙独立運動を画策、のちの満州建国の下準備に当たる、この間満州皇族肅親王{{ruby|善耆|ぜんき}}と親交、その第十四女([[川島芳子]])を養女としたことは有名。 |
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2022年3月7日 (月) 14:39時点における版
(かはしまなには)
基本情報
よみがな | かわしまなにわ |
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職業 | 志士 |
生年 | 1865 |
没年 | 1949 |
出生地 | 信濃国松本 |
別名 | 風外、風外居士 |
経歴
慶應元年12月7日信濃国松本生まれ。昭和24年6月14日歿。号風外、風外居士。明治8年挙家上京、外国語学校に入り支那語を学ぶも中退。副島種臣、榎本武揚等の組織した興亞會に入会し、日清戦争では陸軍通訳官として台湾に従軍、勲功を揚げた。のち乃木台湾総督の下で阿片令施行官となり、北清事変では福島少将直属通訳官に抜擢せられた。34年北京警務学堂を創設して総監督に就任、当時ハルビンに居た二葉亭四迷も教員を務め、学堂の事務長として半年間在職している。辛亥革命の折は淸皇族を擁立する宗社党を支持して清朝擁護運動を興し、また満蒙独立運動を画策、のちの満州建国の下準備に当たる、この間満州皇族肅親王
作品
- 支那の病根 ( 大正13年10月18日 宇治村敏編刊 城南莊同人 ) → 「支那の病根」をさがす
- 時局微言 ( 昭和7年10月20日 政敎社 ) → 「時局微言」をさがす
- 川島風外先生 明心見道銘 ( 入江種矩、村井修編 昭和9年4月7日 政敎社 ) → 「川島風外先生 明心見道銘」をさがす
- 日本及日本人の道 ( 昭和11年3月1日 會田勉刊 ) → 「日本及日本人の道」をさがす
- 川島翁の歩める道 日支時局認識讀本 ( 牛山雪鞋評著 昭和14年1月5日 長野 東洋學會淸風學舎 ) → 「川島翁の歩める道 日支時局認識讀本」をさがす