「小砂丘忠義」の版間の差分
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− | 明治30年4月25日高知県生れ。昭和12年10月10日歿。本姓笹岡。大正6年大杉尋常高等小学校訓導をはじめとして各地の小学校を転々、14年田井第一小学校訓導兼校長を最後に教職を退く。この間数冊の文集を出版、10年にはSNK協会を組織して機関誌『極北』を、13年[[上田庄三郞]]等と『地軸』を創刊した。翌年上京して北豊島郡長崎村に居住し、東京児童の村小学校機関誌『敎育の世紀』を編集。昭和2年文園社に入り『鑑賞文選』の編集に携わる。更に6年郷土社を興して雑誌『綴方生活』『綴方讀本』の編集、執筆に従事していたが、40歳を一期として歿した。遺稿集『私の綴方生活』に序文を寄せた[[田中貢太郞]]とは親交があり、文壇進出を勧められる程その文才を認められた。貢太郞名義の『少年濱口雄幸』は実際小砂丘の執筆に據るものという。歿後15年に当る27年、[[下中彌三郞]]、[[志垣寛]] | + | 明治30年4月25日高知県生れ。昭和12年10月10日歿。本姓笹岡。大正6年大杉尋常高等小学校訓導をはじめとして各地の小学校を転々、14年田井第一小学校訓導兼校長を最後に教職を退く。この間数冊の文集を出版、10年にはSNK協会を組織して機関誌『極北』を、13年[[上田庄三郞]]等と『地軸』を創刊した。翌年上京して北豊島郡長崎村に居住し、東京児童の村小学校機関誌『敎育の世紀』を編集。昭和2年文園社に入り『鑑賞文選』の編集に携わる。更に6年郷土社を興して雑誌『綴方生活』『綴方讀本』の編集、執筆に従事していたが、40歳を一期として歿した。遺稿集『私の綴方生活』に序文を寄せた[[田中貢太郞]]とは親交があり、文壇進出を勧められる程その文才を認められた。貢太郞名義の『少年濱口雄幸』は実際小砂丘の執筆に據るものという。歿後15年に当る27年、[[下中彌三郞]]、[[志垣寛]]を始め日本作文の会によって、新人の綴方実践を奨励するため小砂丘忠義賞が設けられ、また十五周忌記念論稿集として遺稿集の再編『生活綴方の伝統』が刊行せられた。 |
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2024年10月15日 (火) 19:56時点における最新版
(さゝをかたゞよし)
基本情報
よみがな | ささおかただよし |
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職業 | 生活綴方運動家 |
生年 | 1897 |
没年 | 1937 |
出生地 | 高知県 |
経歴
明治30年4月25日高知県生れ。昭和12年10月10日歿。本姓笹岡。大正6年大杉尋常高等小学校訓導をはじめとして各地の小学校を転々、14年田井第一小学校訓導兼校長を最後に教職を退く。この間数冊の文集を出版、10年にはSNK協会を組織して機関誌『極北』を、13年上田庄三郞等と『地軸』を創刊した。翌年上京して北豊島郡長崎村に居住し、東京児童の村小学校機関誌『敎育の世紀』を編集。昭和2年文園社に入り『鑑賞文選』の編集に携わる。更に6年郷土社を興して雑誌『綴方生活』『綴方讀本』の編集、執筆に従事していたが、40歳を一期として歿した。遺稿集『私の綴方生活』に序文を寄せた田中貢太郞とは親交があり、文壇進出を勧められる程その文才を認められた。貢太郞名義の『少年濱口雄幸』は実際小砂丘の執筆に據るものという。歿後15年に当る27年、下中彌三郞、志垣寛を始め日本作文の会によって、新人の綴方実践を奨励するため小砂丘忠義賞が設けられ、また十五周忌記念論稿集として遺稿集の再編『生活綴方の伝統』が刊行せられた。
作品
- 遺稿集 私の綴方生活 ( 小砂丘夢編 田中貢太郞序 昭和13年10月18日 モナス ) → 「私の綴方生活」をさがす
- 生活綴方の伝統 ( 日本作文の会編 昭和28年2月15日 百合出版株式会社 ) → 「生活綴方の伝統」をさがす