「辻新次」の版間の差分
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− | + | 天保13年1月9日信濃国松本生まれ。大正4年12月3日歿。字六我、幼名鼎吉、通称理之助、新次郞、のち新次。号信松、信松居士、信松産士。藩黌崇敬館に学び、文久元年江戸に出て蕃書調所に入り洋学を修める。慶応2年開成所教授手伝、次いで教授試補、明治4年大学大助教に進み、翌年大学南校甲鳥となる。7年文部省設置に際して文部権少丞となり、学制の立案に関与。更に文部大書記官、文部大臣官房長を経て、19年初代文部次官兼総務局長。この間大日本敎育会会長、31年改称帝国教育会会長。27年には仁壽生命保険合資会社設立に当り社長就任。また幕末{{ruby|已|すで}}に『遠近新聞』を、明治10年『敎育新聞』を発刊している。妻里子(旧姓岩波、本名さと、嘉永元年2月生まれ)は和歌を能くす。 | |
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2023年10月31日 (火) 20:22時点における最新版
(つじしんじ)
基本情報
よみがな | つじしんじ |
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職業 | 教育行政家 |
生年 | 1842 |
没年 | 1915 |
出生地 | 信濃国松本 |
別名 | 六我、鼎吉、理之助、新次郞、新次。信松、信松居士、信松産士 |
経歴
天保13年1月9日信濃国松本生まれ。大正4年12月3日歿。字六我、幼名鼎吉、通称理之助、新次郞、のち新次。号信松、信松居士、信松産士。藩黌崇敬館に学び、文久元年江戸に出て蕃書調所に入り洋学を修める。慶応2年開成所教授手伝、次いで教授試補、明治4年大学大助教に進み、翌年大学南校甲鳥となる。7年文部省設置に際して文部権少丞となり、学制の立案に関与。更に文部大書記官、文部大臣官房長を経て、19年初代文部次官兼総務局長。この間大日本敎育会会長、31年改称帝国教育会会長。27年には仁壽生命保険合資会社設立に当り社長就任。また幕末
作品
- 吉田松陰 ( 根本正、小松原英太郞、乃木希典、井上哲次郞、三島毅(三島中洲)、德富猪一郞(德富蘇峰)、嘉納治五郞、本居豐穎、吉田庫三、毛利五郞、合著 帝國敎育會編 明治42年12月23日 弘道舘 ) → 「吉田松陰」をさがす
- 辻男主催 謝恩祭記念 ( 「男爵辻新次先生編松本藩黌崇敬館」附載 大正3年9月8日 岩垂憲德編刊 ) → 「辻男主催 謝恩祭記念」をさがす