「黒埜義文」の版間の差分
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== 経歴 == | == 経歴 == | ||
+ | 江戸士族の家に生まれる。明治5年ニコライ露学校に学び、翌年新設の東京外国語学校露語上等第六級に転入、のち母校ロシア語担当助教授となる。17年教職を退き、露文和訳、文部省の露和字彙編纂に従事。19年ぺテルスブルグ大学日本語講師の職を得、家族を措いてウラジオストクに渡り、単身徒歩で六か月かけてシベリア横断。ペテルブルグで洗礼を受けロシアに帰化。イオシフ・ニコラエウイッチ・クロノと名乗った。1916年(大正5年)までの30年近い在職中、『露和通俗會話篇』等、日本語学習書を中心とした著訳書十数点程があるという。1917,8年頃流行のコレラに被患、ペテログラード近郊で歿した。ペテルブルグ大学日本語講座の授業生に、のちに日本学者として名を挙げるコンラート、ネフスキー、エリセーエフ等がいた。 | ||
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== 作品 == | == 作品 == | ||
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2023年2月21日 (火) 12:52時点における最新版
(くろのよしふみ)
基本情報
よみがな | くろのよしふみ |
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職業 | ロシアの日本語教師 |
生年 | 不詳 |
没年 | 不詳 |
別名 | イオシフ・ニコラエウイッチ・クロノ |
経歴
江戸士族の家に生まれる。明治5年ニコライ露学校に学び、翌年新設の東京外国語学校露語上等第六級に転入、のち母校ロシア語担当助教授となる。17年教職を退き、露文和訳、文部省の露和字彙編纂に従事。19年ぺテルスブルグ大学日本語講師の職を得、家族を措いてウラジオストクに渡り、単身徒歩で六か月かけてシベリア横断。ペテルブルグで洗礼を受けロシアに帰化。イオシフ・ニコラエウイッチ・クロノと名乗った。1916年(大正5年)までの30年近い在職中、『露和通俗會話篇』等、日本語学習書を中心とした著訳書十数点程があるという。1917,8年頃流行のコレラに被患、ペテログラード近郊で歿した。ペテルブルグ大学日本語講座の授業生に、のちに日本学者として名を挙げるコンラート、ネフスキー、エリセーエフ等がいた。
作品
- 露和通俗會話篇 ( 1889年 明治22年 ) → 「露和通俗會話篇」をさがす