「永井ゑい子」の版間の差分
→ 日本の古本屋で本をさがす (→作品) |
(→基本情報) |
||
10行目: | 10行目: | ||
|出生地=上総国茅野村 | |出生地=上総国茅野村 | ||
|本名=永井えい | |本名=永井えい | ||
− | |別名=えい子、映子、英子、Tama | + | |別名=えい子、映子、英子、Tama Ide、井出玉子 |
|}} | |}} | ||
---- | ---- | ||
+ | |||
== 経歴 == | == 経歴 == | ||
慶応2年3月18日上総国茅野村生れ。昭和3年4月23日歿。旧姓松本。本名えい。又えい子、映子、英子とも曙す。父と共に上京して洋学者[[津田仙]]の家に寄食。仙の設立した救世学校に入学し、のち海岸女学校と改称した母校の教師を務めた。この頃、メソジスト派の宣教師ジョン・C・デビソンから讃美歌和訳の依頼を受け、『譜附基督敎聖歌集』(明治17年頃刊)を完成。19年東京高等師範学校女子部に入り、助教師の資格を以てアメリカ人教師の授業で通訳。学校は独立して女子高等師範学校と改称した23年卒業。26年デビソンからの再度の依頼で始めた聖歌集の改訂を二年かけて完了。『改正基督敎聖歌集』(明治28年刊)として出版。31年[[津田梅子]]の紹介で、[[下田歌子]]が学監を務める華族女学校の雇教師となり、英語と家政を教えた。 | 慶応2年3月18日上総国茅野村生れ。昭和3年4月23日歿。旧姓松本。本名えい。又えい子、映子、英子とも曙す。父と共に上京して洋学者[[津田仙]]の家に寄食。仙の設立した救世学校に入学し、のち海岸女学校と改称した母校の教師を務めた。この頃、メソジスト派の宣教師ジョン・C・デビソンから讃美歌和訳の依頼を受け、『譜附基督敎聖歌集』(明治17年頃刊)を完成。19年東京高等師範学校女子部に入り、助教師の資格を以てアメリカ人教師の授業で通訳。学校は独立して女子高等師範学校と改称した23年卒業。26年デビソンからの再度の依頼で始めた聖歌集の改訂を二年かけて完了。『改正基督敎聖歌集』(明治28年刊)として出版。31年[[津田梅子]]の紹介で、[[下田歌子]]が学監を務める華族女学校の雇教師となり、英語と家政を教えた。 |
2022年10月11日 (火) 23:59時点における最新版
(ながゐゑいこ)
基本情報
よみがな | ながいえいこ |
---|---|
職業 | 評論家、歌人 |
生年 | 1866 |
没年 | 1928 |
出生地 | 上総国茅野村 |
本名 | 永井えい |
別名 | えい子、映子、英子、Tama Ide、井出玉子 |
経歴
慶応2年3月18日上総国茅野村生れ。昭和3年4月23日歿。旧姓松本。本名えい。又えい子、映子、英子とも曙す。父と共に上京して洋学者津田仙の家に寄食。仙の設立した救世学校に入学し、のち海岸女学校と改称した母校の教師を務めた。この頃、メソジスト派の宣教師ジョン・C・デビソンから讃美歌和訳の依頼を受け、『譜附基督敎聖歌集』(明治17年頃刊)を完成。19年東京高等師範学校女子部に入り、助教師の資格を以てアメリカ人教師の授業で通訳。学校は独立して女子高等師範学校と改称した23年卒業。26年デビソンからの再度の依頼で始めた聖歌集の改訂を二年かけて完了。『改正基督敎聖歌集』(明治28年刊)として出版。31年津田梅子の紹介で、下田歌子が学監を務める華族女学校の雇教師となり、英語と家政を教えた。
33年頃『毎日新聞』記者になり足尾鉱毒事件を取材、『鑛毒地の惨狀』(明治35年刊)の編集出版を置き土産にしてアメリカに渡り、Tama Ide(井出玉子)の名で講演等に活躍。39年英語教科書の日本語訳の仕事で知り合った永井元と結婚。この年サンフランシスコ大地震で被災するも、救済会を組織して救援活動に従事。その後カレッジ・オブ・パシフィックを卒業。また世界大戦の折には、『在米婦人新報』等に非戦論を精力的に執筆した。
歿後、四六判千四百餘頁に及ぶ詩歌論稿の全文集を集成した『永井ゑい子詩文』が出版せられた。府馬淸著『松本英子の生涯』がある。
作品
- 譜附 基督敎聖歌集 ( 明治17年頃 ) → 「譜附 基督敎聖歌集」をさがす
- 改正 基督敎聖歌集 ( 明治28年 ) → 「改正 基督敎聖歌集」をさがす
- 鑛毒地の惨狀 第一篇 ( 松本英子名 明治35年4月11日 敎文館 ) → 「鑛毒地の惨狀 第一篇」をさがす
- 永井ゑい子詩文 ( 昭和4年4月23日 永井元編刊 ) → 「永井ゑい子詩文」をさがす
文獻
- 松本英子の生涯 ( 府馬淸著 昭和56年3月20日 昭和図書出版 ) → 「松本英子の生涯」をさがす