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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
文政11年5月14日丹後国生れ。明治18年12月4日歿。諱義健、幼名柔吉。号白雲。田辺藩士古川(河)氏の第五子。八歳で藩黌に入り、のち京師に至って[[新宮凉庭]]に学ぶ。傍ら[[宮本元甫]]に蘭学を{{ruby|質|ただ}}す。弘化3年凉庭の養子となり第一分家を立てた。在京の儘津藩の医官に任じ、私塾を開いて子弟を教授、また三國大學([[三國幽眠]])等と国時に本草するなどのこともあった。明治6年同業と{{ruby|胥議|しょぎ}}して刑屍解剖、維新後京都に於ける解体の濫觴という。12年京都府の諮問に応じ、安政年間京に流行せる{{ruby|虎列刺|コレラ}}患者員数、治死数、治療法等を復申、重ねて数種の著書を上梓した。維新前、[[西周]]に就きフランス学を修めるなど学漢欧に亘った。晩年漢詩文に意を用い、[[齋藤拙堂]]、[[土井聱牙]]、[[石津灌園]]、[[森寛齋]]、[[林雙橋]]等と親交。『白雲遺稿』は漢詩集。
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文政11年5月14日丹後国生れ。明治18年12月4日歿。諱義健、幼名柔吉。号白雲。田辺藩士古川(河)氏の第五子。八歳で藩黌に入り、のち京師に至って[[新宮凉庭]]に学ぶ。傍ら[[宮本元甫]]に蘭学を{{ruby|質|ただ}}す。弘化3年凉庭の養子となり第一分家を立てた。在京の侭津藩の医官に任じ、私塾を開いて子弟を教授、また三國大學([[三國幽眠]])等と国時に本草するなどのこともあった。明治6年同業と{{ruby|胥議|しょぎ}}して刑屍解剖、維新後京都に於ける解体の濫觴という。12年京都府の諮問に応じ、安政年間京に流行せる{{ruby|虎列刺|コレラ}}患者員数、治死数、治療法等を復申、重ねて数種の著書を上梓した。維新前、[[西周]]に就きフランス学を修めるなど学漢欧に亘った。晩年漢詩文に意を用い、[[齋藤拙堂]]、[[土井聱牙]]、[[石津灌園]]、[[森寛齋]]、[[林雙橋]]等と親交。『白雲遺稿』は漢詩集。
 
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== 作品 ==
 
== 作品 ==
  

2023年11月29日 (水) 21:27時点における版

(しんぐうりやうかく)


基本情報

よみがな しんぐうりょうかく
職業 蘭方医、漢詩人
生年 1828
没年 1885
出生地 丹後国
別名 義健、柔吉。白雲



経歴

文政11年5月14日丹後国生れ。明治18年12月4日歿。諱義健、幼名柔吉。号白雲。田辺藩士古川(河)氏の第五子。八歳で藩黌に入り、のち京師に至って新宮凉庭に学ぶ。傍ら宮本元甫に蘭学をただ す。弘化3年凉庭の養子となり第一分家を立てた。在京の侭津藩の医官に任じ、私塾を開いて子弟を教授、また三國大學(三國幽眠)等と国時に本草するなどのこともあった。明治6年同業と胥議しょぎ して刑屍解剖、維新後京都に於ける解体の濫觴という。12年京都府の諮問に応じ、安政年間京に流行せる虎列刺コレラ 患者員数、治死数、治療法等を復申、重ねて数種の著書を上梓した。維新前、西周に就きフランス学を修めるなど学漢欧に亘った。晩年漢詩文に意を用い、齋藤拙堂土井聱牙石津灌園森寛齋林雙橋等と親交。『白雲遺稿』は漢詩集。


作品



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