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== 経歴 ==
 
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安政6年12月16日相模国大山生れ。昭和3年9月2日歿。初め[[下山養德]]に就き習字素読を学び、[[藤原弟彦]]、[[小山水哉]]等に従い漢学を修める。明治7年[[權田直助]]に入門。13年三島神社境内の修正学舎教員、爾後大山生徒寮教員、静岡県皇典講究所正科教員、同県神官試験掛歴任。師帰幽後、阿夫利神社祠掌、小講義に称せらる。21年同志と「中相學友會學術雜誌」を創刊し編集を担う。翌年[[佐佐木高行]]の知遇を得て上京、言語取調所編集部員となり明治會の事に与って「明治會叢誌」発刊に参画。24年国語伝習所講師、また大八洲学会に関与、26年図書寮御系譜課勤務。その後、[[落合直文]]等と國語漢文専修會、歌道研究會の発企、41年歌會富志美會主宰。大正4年{{ruby|幟仁親王|たかひとしんのう}}実録編集主任、図書寮御用掛等を務め、各地歌會の指導に当った。姉安子は[[秋山光條]]に嫁し、歌人[[逸見義亮]]は次男。
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 安政6年12月16日相模国大山生れ。昭和3年9月2日歿。号眞木の屋、萬喜の舎主人、萬喜舎、萬喜舎主人、翠舎主人、逸見仲。
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 初め[[下山養德]]に就き習字素読を学び、[[藤原弟彦]]、[[小山水哉]]等に従い漢学を修める。明治7年[[權田直助]]に入門。13年三島神社境内の修正学舎教員、爾後大山生徒寮教員、静岡県皇典講究所正科教員、同県神官試験掛歴任。師帰幽後、阿夫利神社祠掌、小講義に称せらる。21年同志と「中相學友會學術雜誌」を創刊し編集を担う。翌年[[佐佐木高行]]の知遇を得て上京、言語取調所編集部員となり明治會の事に与って「明治會叢誌」発刊に参画。24年国語伝習所講師、また大八洲学会に関与、26年図書寮御系譜課勤務。その後、[[落合直文]]等と國語漢文専修會、歌道研究會の発企、41年歌會富志美會主宰。大正4年{{ruby|幟仁親王|たかひとしんのう}}実録編集主任、図書寮御用掛等を務め、各地歌會の指導に当った。姉安子は[[秋山光條]]に嫁し、歌人[[逸見義亮]]は次男。
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 著書に『文法詳解土佐日記要義』『萬喜舎集』等の他、先師[[權田直助]]の遺著を[[井上賴圀]]と共に校訂出版(『増補訂正國文句讀法』『名越舎遺稿』『漢文和讀例』)、また、[[富永春部]]監修『撰集考典』の増補訂正を助勢、『神習舎玉簏目錄 神習舎歌文集』を[[田邊勝哉]]と共編出版(神習舎は[[井上賴圀]]の号)している。
  
 
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2023年8月20日 (日) 21:57時点における最新版

(へんみちゆうざぶらう)


基本情報

よみがな へんみちゅうざぶろう
職業 国学者、歌人
生年 1859
没年 1928
出生地 相模国大山
別名 眞木の屋、萬喜の舎主人、萬喜舎、萬喜舎主人、翠舎主人、逸見仲



経歴

 安政6年12月16日相模国大山生れ。昭和3年9月2日歿。号眞木の屋、萬喜の舎主人、萬喜舎、萬喜舎主人、翠舎主人、逸見仲。

 初め下山養德に就き習字素読を学び、藤原弟彦小山水哉等に従い漢学を修める。明治7年權田直助に入門。13年三島神社境内の修正学舎教員、爾後大山生徒寮教員、静岡県皇典講究所正科教員、同県神官試験掛歴任。師帰幽後、阿夫利神社祠掌、小講義に称せらる。21年同志と「中相學友會學術雜誌」を創刊し編集を担う。翌年佐佐木高行の知遇を得て上京、言語取調所編集部員となり明治會の事に与って「明治會叢誌」発刊に参画。24年国語伝習所講師、また大八洲学会に関与、26年図書寮御系譜課勤務。その後、落合直文等と國語漢文専修會、歌道研究會の発企、41年歌會富志美會主宰。大正4年幟仁親王たかひとしんのう 実録編集主任、図書寮御用掛等を務め、各地歌會の指導に当った。姉安子は秋山光條に嫁し、歌人逸見義亮は次男。

 著書に『文法詳解土佐日記要義』『萬喜舎集』等の他、先師權田直助の遺著を井上賴圀と共に校訂出版(『増補訂正國文句讀法』『名越舎遺稿』『漢文和讀例』)、また、富永春部監修『撰集考典』の増補訂正を助勢、『神習舎玉簏目錄 神習舎歌文集』を田邊勝哉と共編出版(神習舎は井上賴圀の号)している。


作品











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